日本ゼオライト学会 刊行物 Publication of Japan Zeolite Association

ISSN: 0918–7774
一般社団法人日本ゼオライト学会 Japan Zeolite Association
〒162-0801 東京都新宿区山吹町358-5 アカデミーセンター Japan Zeolite Association Academy Center, 358-5 Yamabuki-cho, Shinju-ku, Tokyo 162-0801, Japan
Zeolite 34(1): 28-31 (2017)
doi:10.20731/zeoraito.34.1.28

ゼオゼオゼオゼオ

アメリカでのポスドク研究生活

東京大学生産技術研究所 特任助教

発行日:2017年1月31日Published: January 31, 2017
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筆者は,ポスドク研究員として2013年4月より2014年9月までデラウェア大学Raul F. Lobo教授,その後2016年9月までイリノイ大学David W. Flaherty教授の下で研究生活を送った。本稿では,渡米,研究生活,現地の様子等について,今後アメリカでの研究を考えている方,ポスドク先として海外を考えている方の参考になるよう紹介したいと思う。

1. 応募,米国内での異動

現在では,ポスドク研究員として数年の研究員生活を送る事は研究者のキャリアとして珍しくない選択肢となっている。国内外様々な可能性があるが,特に海外の研究室に応募する際には,行く先の事情を知っておいた方がよい。可能であれば,国際学会等で教授・研究室メンバーに挨拶したり,研究室を訪問したりしておくと,先方としても全く知らない人を迎えるよりハードルは下がる。また,ポスドクを受け入れているか,将来募集する予定があるか等知っておくとよい。筆者が研究先としてアメリカ・デラウェア大学を選んだ大きな理由としても,海外でポスドクをやってみたかったこと,過去にその研究室を訪問した経験があったからである。アメリカ行きを決意した後,まずは研究費の工面が課題である。世界中どこでポスドクをやるにしろ,日本学術振興会・その他財団等の制度を利用し,研究費を自分で調達するのが一番歓迎される方法である。しかし,例えば,海外学振申請のためには,1年以上前から先方と連絡を取る必要があり,応募準備に長い期間を要することになる。筆者は残念ながら海外学振に通らなかったが,運よく先方の研究費の都合がつき,ポスドクとして雇われることとなった。今振り返れば,研究費工面が最終的に相手任せになってしまったのは少々危険であった。先方に配慮しつつも他の手を回しておくべきであったかもしれない。渡米から1年半後,新たなことを学ぶため,アメリカ国内で研究室を移ることを決めた。この際も自分の研究費を持たず,ポスドクの公募に申請することになった。アメリカでは個人のキャリアの作り方も非常に多様で,まとまった人事異動のタイミングが無いため,ポスドクの公募も不定期に行われる。研究室HP上でどのぐらい大学院生・ポスドクを募集しているか明記しているところも多い。掲示が無い,または募集していないという場合でも,先方に積極的にCVを送る事で話が進んでいくこともある。通常,推薦者を2~3名程度紹介する必要があるので,博士在籍中は勿論,その後も指導教員や博士論文の査読の先生などには長くお世話になることになる。アメリカでの二つ目の研究室として,幾つか連絡を取りCVを送った結果,イリノイ大学とカリフォルニア大学で採用の可能性があるということで応募を進めた。カリフォルニア大学は現地まで行き,研究発表と面接を行い,イリノイ大学ではスカイプで研究発表と面談の様な事を行った。最終的にイリノイ大学の方に雇ってもらえることが決定したが,デラウェアの任期が終わる2カ月前に決まるなど忙しいスケジュールであった。

Zeolite 34(1): 28-31 (2017)

Raul F. Loboグループ集合写真

Zeolite 34(1): 28-31 (2017)

David W. Flahertyグループ集合写真

2. アメリカ生活

筆者が経験した2つの大学は,いずれの大学も郊外にあり小さな大学街を形成していた。大都市にある大学に比べ,街の娯楽や商業施設では遥かに劣るが,その分研究に集中できる環境であったと思う。最初に採用されたデラウェア大学についてだが,東海岸の田舎町ニューアークにあり,北はNY・フィラデルフィア,南はワシントンDCに挟まれている。デュポン社が興った土地柄もあり,化学工学・化学・生化学系の分野に強く,Center for Catalytic Science and Technology(CCST)やCatalysis Center for Energy Innovation(CCEI)等の大型研究拠点を有している。学部生・院生合わせて2万3千程度の生徒がいたが,筆者が在籍している間に語学留学以外で在籍している日本人学生には出会わなかった。大きな都市まで車で数時間程度であるが,ニューアーク自体は非常に小さく観光名所の様なものもない。大学本部を中心に,大学の周辺施設(図書館・ジム・病院など)・小さな商店街・アパート群そしてアムトラックが停まる鉄道の駅が存在する。筆者は研究室まで徒歩30分程の位置のアパートを借りており,通勤は大学の巡回バスを利用したり,天気のいい日は徒歩で行っていた。普段の生活に支障はないが,週末ともなると自家用車を持っていないと行動範囲が非常に狭くなってしまう。車で20~30分の距離に超大型ショッピングモールがあり,週末はそこへ遊びに行くことが多かった。

イリノイ大学アーバナ・シャンペーン校はデラウェア大学よりも大きな大学で,4万4千~5千程度の学生が在籍している。イリノイ大学は古くは農業を研究してきた大学で,敷地内には歴史あるコーン畑の一部が保存されている。現在では化学・エンジニアリング分野に加え,材料・コンピューター分野でも世界を牽引する大学である。日本人学生も比較的在籍しており,化学・化学工学系では,約5人程度の学生と20人程度のポスドク・職員が日本人であった。イリノイ州のほぼ中央に位置し,シカゴからまっすぐ南に,広大なコーン畑の中を250キロほど進んだところにある。名の通り二つの町(アーバナ市・シャンペーン市)にまたがる様に位置しており,この二つの町がより大きな大学街を形成している。デラウェアの時は7本程度だったバスルートもイリノイでは20本を超え,バス時刻表も薄めのタウンページぐらいのボリュームがあった。娯楽施設・飲食店も増え,寿司やラーメンなどの日本食を出す店も数店あった(味は何とも言えない)。また驚いたことに,学食の横にはボーリング場・ビリヤード場と小さなゲームセンターもあり,学生や教職員とその家族,地域の人で賑わっていた。

規模の違う大学ではあったが,アメリカの大学を2つ経験し,大学の福利厚生の手厚さ,そして雇用契約の厳密さについては日本の大学と大きく違うと感じた。大学の保険が非常に優秀で安価だったことはアメリカ生活において,とても有り難かった。個人で同程度の保険に入る場合の,1/5程度の掛け金で家族も一緒に医療・死亡保険に入ることができた(イリノイ大学ではアメリカでの職歴2年未満の教職員は大学の保険に入ることができない等,州によるそれぞれのルールがあるようだが)。また,教職員の家族も大学施設(ジム・図書館等)を無料,または格安で利用することができた。さらに同大学への入学,英語コースへの入学も割引が適用される。雇用される際には,大学で受けられるベネフィット(施設・保険・休暇等)について数時間のセミナーがあり,施設のクーポン券なども貰えた。雇用契約に関しては日本よりも厳しく,休暇病欠に対する考え方・労働条件の交渉等,日本では考えられないような文化に戸惑うこともあった。またこの2つの大学は,アメリカにしては非常に治安が良く,特にデラウェア大学では暗くなった後でも女子学生が一人でランニングしている姿や,外を歩く姿をよく見かけ,アメリカ国内での治安格差を感じた。

3. ポスドク生活

研究生活は殆ど日本と変わらないように感じたが,自分の時間をどれぐらい研究と家族に割り振るかということを考えるようになった。また日本よりも学生・ポスドク・教授の垣根が低く,互いに活発な議論があった。アメリカのポスドクは,ある分野・技術において学生を引っ張っていく一方,新たなことに関しては学生にも自ら教わっていくという姿勢が印象的であった。研究の進め方は研究室によると思うが,筆者は大体月に2~4回の個別ミーティングがあり,その時の結果,発生している問題,次の課題について逐一解決していくスタイルであった。また,全体ミーティングで発表する際にも,筆者の発表レベルに教授が納得しない時などは,個別に内容に関して問題点を提示され,その解決策について考えていく事といった厳しい面もあった。

英語も海外での研究生活では大きな不安要素の一つである。特にネイティブ学生同士の日々の雑談は,何を言っているのか全く追いつかずBGM状態であったが,研究の内容の話は皆親切に聞いてくれた。またイリノイ大学では幸運にも英語学校の先生と日本語と英語を互いに教える機会に恵まれた。英会話の発音からビジネスシーンでの英語まで教わり,非常に有意義な時間であった。アメリカでは自己主張が大事とよく言われているが,むしろ筆者としては,多様な文化が混ざり合ったことによって以心伝心が危険だという感覚であった。当然のことと思えても,お互いの主張を確認することは失礼には当たらず,むしろやらなければならないことであった。留学生も多く,英語のレベル,そして文化もバラバラであり,普通の会話の中でも意味を確認する・聞き直すという事はよくあった。筆者は南部訛りで聞き直されるHaan?に何度も心折られ,相手に悪意が無いということを理解するのに時間がかかった。特に難しかったのは学部生の指導である。学部生は研究室には所属しないが,単位取得の一環としてパートタイムで働くことができる。各学部生は履歴書を提出し教授・指導する大学院生がそれを採用する様な形であり,成績も厳しくつけられる。筆者にも何度か話があり,初めは英語での指導に慄いて断っていたが,途中から大学院生(Andrew)と一緒に研究を進めることになった。彼らは基本的にはとても優秀だが,英語が下手な人と真面目に話す経験は少なく,こちらの足りないニュアンスを間違えて補ってしまうことも少なくなかった。事故に至ることはなかったが,Andrewが1人で実験することも多く,事故の可能性がある操作と事故対応については何度も説明するようになった。

4. 研究テーマについて

筆者はゼオライト合成で博士号を取得したため,ポスドクでは触媒等の応用研究がしたいと考えていた。しかし,デラウェアでは主にSCR用ゼオライト合成プロジェクトに携わり,サイドプロジェクトとして触媒反応のさわりを学んだ程度であった。より深く触媒のことを学ぶため,触媒を専門にやっている研究室を候補にし,その中から次のポスドク先を決定した。イリノイでは固体酸塩基触媒を用いたバイオエタノール転換について研究を行うこととなり,ゼオライトとは全く異なる分野であったが結果として非常に有意義な研究生活を送る事が出来た。David Flaherty教授は,研究室を立ち上げて数年の若い教授であり,触媒研究の経験がほとんどない筆者は懇切丁寧に触媒の化学工学的基礎について教えて頂いた。異なる分野に飛び込むのは結果を出し辛いというリスクもあるが,新たな研究フィールドを手に入れられる強み・メリットも大きく,比較的時間のあるエネルギッシュな教授の下で新天地に挑むのは価値があった。

5. ポスドクからその後

ポスドクとしては,初めにボスと今後自分のキャリアをどうしていきたいのか話すことが大切である。どういうキャリアを考えていて,このポスドク期間中にどのようなことを学びたいのか,どのように結果として出したいのか。自分で研究費を持って行かない限り,あるプロジェクトに雇われることになるので,その枠の中で業績を残していくことになる。プロジェクトによるが,必ずしも論文という形で成果を出すことは求められておらず,研究結果は出ても学会に参加しない・論文も書かないということもありえる。アメリカでは,卒業生・輩出したポスドクというのも研究室の成果として捉えるため,教授も(時間があれば)人を育てる努力をしてくれるので,自分のキャリアのために手助けしてもらえることがあればお願いしていくことも必要だ。大学としても人材育成に力を入れており,ポスドク・若い教授のためのキャリアアップ,研究費申請等のセミナーも頻繁に開催されていた。

ポスドク後は,産業界・アカデミック・国立研究所の3つが主な就職先になるが,筆者の周りでは産業かアカデミックへの就職が主であった。会社で働くことを考えた場合,アメリカでは各会社の採用担当に連絡し,CVを送るところから始まる。大まかな採用時期というものはあるが,ポスドクから採用される場合,基本的には年間いつでも対応してくれて,採用後のスケジュールも交渉できる。その後研究発表,面接などを経て採用といった流れだ。アカデミックも同様で,募集を出している大学にCVを送り,そこで通れば何度かの研究発表と面接が行われる。この募集情報は大学事務から定期的に送られて来て,その数は日本よりも多く,単純に採用確率は高いように感じられた。筆者が特に良い制度だと思ったのは,アメリカ化学工学会(AIChE)で行われるMeet the faculty candidateというポスターセッションである。このセッションではアカデミック職を得たいポスドク・学生がポスター発表をし,自己PRを行うことができる。これに合わせ,各自がCVを幾つかの大学に出しておき,会場で実際に応募した大学と面接をしたりすることが可能である。また採用側も,良いポスター発表をしている人物をスカウトすることができる。筆者は直前にこれを知ったためCVを送るなどは出来なかったが,それでも新設大学から化学系の若い人を探しているという話を頂いた。

6. 最後に

アメリカでの3年半のポスドク生活は長くもあり短くもあり,アメリカだからこそ得られたものと,日本にいないことで失ったものとがあったが,総合的には人生が面白くなったと思っている。アメリカは,日本よりもキャリアをやり直すということに寛容で,日本よりも実力を厳しく評価する国であった。新しい国も住めば都であり,英語という言葉の壁も度胸があれば伝わるようになっていく。アメリカに限らず,働く場を世界に求めるのはそれほどハードルが高いことではないのかもしれない。

最後になりますが,渡米中に推薦人となっていただいた,大久保達也教授,小倉賢教授,また現地で支えて頂いた多くの方々に感謝を表しまして本稿を締めくくりたいと思います。

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