日本ゼオライト学会 刊行物 Publication of Japan Zeolite Association

ISSN: 0918–7774
一般社団法人日本ゼオライト学会 Japan Zeolite Association
〒162-0801 東京都新宿区山吹町358-5 アカデミーセンター Japan Zeolite Association Academy Center, 358-5 Yamabuki-cho, Shinju-ku, Tokyo 162-0801, Japan
Zeolite 33(4): 127-130 (2016)
doi:10.20731/zeoraito.33.4.127

ゼオゼオゼオゼオ

マサチューセッツ工科大学(アメリカ合衆国・ケンブリッジ)滞在記

東京大学大学院工学系研究科

発行日:2016年10月15日Published: October 15, 2016
HTMLPDFEPUB3

筆者は2014年4月から2016年3月までの2年間,日本学術振興会の海外特別研究員としてアメリカ合衆国のマサチューセッツ工科大学(以下,MIT)へ派遣され,Yuriy Román-Leshkov先生のグループにて研究する機会を得た。これから海外での研究活動を考えている方の参考となればと思い,本稿にてその間の経験について紹介する。

Zeolite 33(4): 127-130 (2016)

写真1 MITのシンボルとなっているドームの前で.

1. ケンブリッジとボストン

MITはアメリカの東海岸,マサチューセッツ州ケンブリッジ市に位置している。ケンブリッジ市はMITに加えてハーバード大学も有する大学都市であり,イギリスの同名都市が由来となっている。世界有数の有名大学が約1.5 km,地下鉄の駅にしてわずか2駅という距離にあるという環境は世界中を探しても稀有なものではないだろうか。ケンブリッジ市自体は人口10万人,総面積18.5 km2ほどと大きくはないが,周辺の市と合わせたボストン大都市圏に含まれる。

ボストン市は,ケンブリッジ市からチャールズ川に隔てられた対岸に位置し,文化的・経済的にニューイングランド地方の中心都市である。芸術やスポーツが大変盛んであり,疎い筆者ですら,ボストンポップスオーケストラやボストンバレエ,ボストン美術館などの素晴らしさに息を飲み,レッドソックスを応援し,ペイトリオッツのスーパーボウル制覇に歓喜した。

Zeolite 33(4): 127-130 (2016)

写真2 ケンブリッジ(左)とボストン(右)の街並み.中央を流れているのがチャールズ川

都市内の移動は主にTと呼ばれる地下鉄かバスであり,公共交通機関が充実しているため自家用車は必要なかった。筆者が通勤に利用していた地下鉄のレッドラインは治安もよく,(期間限定の試験的にではあったが)深夜の2時過ぎまで営業しており,最寄り駅周辺は深夜に女性が1人で歩いている様子も見られた。

2. Román研究室

Department of Chemical Engineeringに属するRomán研究室は,15名程度の大学院生と数名のポスドクが在籍していた。Principal Investigator(PI,研究室責任者)のRomán-Leshkov先生は,筆者の滞在中にAssistant ProfessorからAssociate Professorに昇進されている。学部生についてはUndergraduate Research Opportunity Program(UROP)などにより在籍していることもあったが,院生が中心である。院生それぞれに安全管理,ウェブマスター,消耗品管理,廃棄物管理などの役割を割り当て,装置ごとの担当者も決められていたのは多くの研究室において共通することかと思う。

ゼオライトに限らず広く触媒を扱っている研究室には,反応装置とガスクロマトグラフが何台もあり,およそ2,3人でひとつを共有していた。その他,水熱合成装置や吸着装置,赤外分光装置などがあり,個々人にそれぞれ割り当てられた作業スペースは十分な広さがあった。X線回折装置は,Department of ChemistryのMircea Dincă先生のグループで管理しているものを共用していた(代わりにRomán研では熱分析装置を管理して共用)。Dincă先生の研究室とはPI同士の仲が大変良いことに加え,前述のようにお互いの装置を共有していたので,お互いの学科の懇親会に参加するなどよく交流があった。同じく学科を越えて仲が良かったのはYogesh Surendranath先生(Department of Chemistry)のグループが挙げられ,これら3研究室全てに所属しているポスドクもいた。

Zeolite 33(4): 127-130 (2016)

写真3 Román研のメンバー(筆者の送別会の時の写真.右端がRomán先生,中央でもらったMITトレーナーを着ているのが筆者).

3. 研究活動

筆者の在籍時,Román研究室に於いて研究の中心トピックはおおまかに分けて2つあった。ひとつは,スズやジルコニウム,ハフニウムを導入したルイス酸として機能する疎水性ゼオライトであり,一方はタングステンなどの炭化物をナノ粒子化したもので,これらを触媒として用いる研究が精力的に進められていた。これら以外にもトピックは色々あったが,割いている人員以上にこの2つが印象的であったのは,どちらも用いている材料に独自性・特色があるという点である。ある時Román先生にどのようにして研究の方針やターゲットを決めているのかと訊いたことがあったが,その時の答えは”Material”であった。ゼオライト合成を学生時代に学び,次は触媒反応を学びたいと考えていた筆者にとって,反応を見出す際の特色を材料としていた点は嬉しい驚きであった。

実際の研究はこれらの内容に関わるものを並列して進めていたが,始めは目標設定が高かったこともあり,なかなか成果が出ずあっという間に半年が過ぎてしまったのを覚えている。さらに追い打ちをかけたのは,半年経った10月から12月まで,研究室の建物の建て替え工事のために実験がほぼ止まってしまったことである。一応,同じ学科の他研究室に間借りして一部の装置を稼働させてはいたが,ほとんど実験ができなかった。しかし,この期間は悶々としてはいたものの,今までで一番落ち着いて論文を読み,自身の研究の方向性について整理できた期間でもあったので,悪いことばかりでもなかったように思う。その後,研究の方針を大きく変更したり,新しい研究テーマに関わったりと紆余曲折を経たが,どうにか成果を幾つかもって帰国することができた。

Zeolite 33(4): 127-130 (2016)

写真4 研究室があった建物.三角柱のような形をしている.

4. その他印象的だった物事

・セミナー(ChemE Seminar Series)

学期中は学科が催しているセミナーがほぼ毎週あり,新進気鋭の若手の方から著名な大先生まで様々な方の講演を拝聴することができた。筆者は出来る限り毎回参加するようにしていたが,セミナーはいつも人気で,開始時間を忘れて油断しているとすぐに席が埋まってしまい,立ち見になることもしばしばであった。また,セミナーやグループミーティングの際に必ずピザやお菓子類が用意されているのも初めは物珍しく,ものを食べながら人の話を聴くことには当初若干の抵抗があった。しかしながら,すぐに慣れてしまうとあるのが当然であるかのような気になり,さらにはピザ目当てに専門外のセミナーに参加することもあった(筆者は入っていなかったが,MITには食べ物がもらえるイベントやセミナーの情報ばかりが流れるフリーフードメーリングリストがあったらしい)。

・シェアハウス

ボストン近郊の家賃は東京と比べても高いほどである上,日本でよく見られる1Rや1Kといった間取りはほとんどなく,一人暮らし用には大きな部屋や家を何人かでシェアするのが一般的であった。筆者も一軒家を12人ほどでシェア(地階,1階,2階,3階に3人ずつ)していた。日本人も数人いたが住んでいる人のバラエティは豊かで様々なバックグラウンドを持った人が入り混じって生活し,機会があればパーティを開いている環境はとても楽しかった。

・ボストンの気候

一般的に,ボストンは寒いと言われることが多いと思う。1月~3月くらいには街中でも雪が降り,筆者が滞在していた2014-2015シーズンには最高降雪量の記録を更新した(約110インチ,280センチメートル)。スノーストームが来ると地下鉄も止まり,大学の閉鎖も数回あった。しかし,極めて個人的な感想で恐縮だが,北海道旭川市(最低気温記録−41°C,平均年間降雪量700センチほど)出身の筆者にとってはボストンの冬はそれほど寒くならない上に雪も少なく,大変過ごしやすい気候であった。スキー場も多く,近いところでは車で1時間ほどで行けたこともあり,ボストンの冬は楽しめた。ただし,侮っていると,シェアハウスの中のひとりが水道管の凍結防止用においていたヒーターを動かしてしまい,水道管が破裂,筆者の部屋の天井が溢れた水の重さに耐えられず崩壊するということがあったので油断大敵であると学ぶことになった。

Zeolite 33(4): 127-130 (2016)

写真5 崩壊した部屋の天井

・ボストン日本人研究者交流会

ボストンに住んでいる日本語話者向けに定期的なセミナーを開催しており,毎回100名程度の参加者があった。参加者は研究者に限らず様々であり,参加者の中から選ぶ講演者も産学の研究者,官僚,スポーツ選手,アーティストなど多種多様であった。海外に来ているにも関わらず日本人で集まるのは良くないという意見ももっともである(実際筆者も積極的に日本人以外のコミュニティでも遊びにいこうとしたし,それが良かったと思っている)が,見方を変えると海外であるからこそ,日本人というだけで日本国内にいたのではなかなか接点のない方に出会え,仲良くなれるという利点もあると感じた。この会で知り合った方々とは帰国後も交流がある。

5. おわりに

とりとめのない話になってしまったが,いち若手研究者の経験談として読んでいただければ幸いである。もちろん縁もゆかりもない海外で生活を始めるには苦労もあったが,滞在していた2年間は実り多く楽しい期間であったと思っている。滞在中お世話になった多くの方に謝意を示し,結びの文章とさせていただきたい。

This page was created on 2017-02-14T17:29:56.127+09:00
This page was last modified on


このサイトは(株)国際文献社によって運用されています。